ゆうかり木工班 ものづくりの歴史に終止符

 

 

~木工班のはじまり~

ゆうかりの木工班は1971年(昭和46年)よりスタートしました。

 

~木工班独自の空間の中で~

45年前、ゆうかりの木工班に縁あって入職された黒葛川さん。以前は、家具づくりを経験されていました。元々手先が器用だったようです。

いつも木工室前の腰掛椅子に座っている利用者と目が合うと、ひときわ大きな声で挨拶をしてくれます。その方含めて利用者は現在2名。
こちらの利用者は寸分違わず全く同じものを淡々と形作っていきます。しかもとても綺麗です。

近づくとピタッと作業を止めてしまうので、こちらの二枚のお写真は貴重です。こちらの利用者は木の削り粉末が付着した製品をピッカピカに磨いてくれます。磨き屋のプロです。

木工室入口に近づくと木の良い香りがします。扇風機の風の音とともに木の粉末が舞ってライトに照らされるのを見て綺麗だと感じました。ただし、木工室に入るだけで服に木の粉が沢山付着します。

この空間の中で数々の商品が製作されてきました。木工室は学校の図工室のような懐かしい匂いがします。

魚の形をした屋久杉の箸置きにニスを塗り乾かしている利用者さんの懐かしいお写真です。

~当時の木工班~

黒葛川さんが入職された頃は木工班の職員も含めて3名配属。

利用者さんは15名いましたが、企業へ就職された方もいれば、事情があって辞めた方、亡くなられた方がおり人数が減っていきました。ベルトサンダーなど機械を扱ったり、塗料付けなど誰でも簡単に出来る作業ではありません。

当時は物が売れる時代でもあり、屋久杉の需要もとても高く数多くの製品をつくってきました。地域住民の方々、木工製品が好きな方、海外の方、県外の方たちに屋久島の想い出、鹿児島の想い出、ゆうかりの想い出として買って頂きました。ゆうかりの木工班も販売できるものを試行錯誤しながら増やしていきました。

『もものけ姫』で出てくる言霊に似ている猫の顔部分です。小中大とサイズがありました。写真立てや色々な種類のペン立てがありました。

高級料亭で出てくるような屋久杉の箸置きです。当時は屋久杉の箸置きも良く売れていたようです。

木工製品~

ぐいのみ、ペン立て(猫大・猫小)、ようじ立て(杉)

キーホルダー、コースター、屋久杉のお皿、花瓶

箸置き、卒業記念のラグビーボール、バレーボール、バスケットボール、野球ボール、髪留め、他

ラグビーボールはラグビー部の卒業生に卒業記念として注文も受けていました。ゆうかりの水流源彦理事長もラグビーをされていたようです。

~販売先~

工芸品を取り扱う店、バザー等イベント、個人

子供の頃、お祭りやバザーで木工製品があると必ず欲しくて見ていた記憶があります。木工班の作った木工製品もキラキラした目で子ども達から大人まで欲しくなったことでしょう。

~屋久杉の仕入れ~

木工を始めた当時は屋久杉でできた商品を製作している工芸店から無料で材料を頂いていましたが、最近は制作時にカットした後の切れ端やサイズの小さな木材を購入していました。

屋久杉伐採禁止になってからは仕入れがほとんどない為、残った材料でとても小さいものになりました。

屋久杉の需要があり商品がつくるたびに売れた当時は、工芸品店から材料となる木材を約50万円分購入し(木材により金額に違いあり)製材所で用途に応じた形にカッティングしていただいた木材をゆうかりの木工班で加工し製品化していました。

工芸品を取り扱う店からの注文も3~4年前からなくなりました。

 

~屋久杉の魅力~

当時屋久杉は2000年生きたものが屋久杉と言われていましたが、現在は屋久杉自体が伐採禁止で貴重な木材になったため、1000年生きたものでも屋久杉となっているようです。3000年以上生きたものは縄文杉と言われています。

宮崎駿監督作品のジブリ『もののけ姫』でもモデルになった屋久島の大自然は長い月日をかけた生命であり、登山客を魅了しています。

雨の多い気候で育った屋久杉は、成長スピードが遅いため木目が非常に緻密で樹脂分が多くなります。屋久杉は普通の杉とは違い、心材(中心に近い部分)の色が濃く、香りも強く、木目が細かく美しい。樹脂が多く普通の杉の6倍以上含まれているので虫にも強く、腐りにくい特徴があります。そして水分と油分をよく含んでいるためツヤがあります。

 

~個人的な屋久島の想い出と魅力~

屋久島へ泊りがけで登山をした時、雨と霧のためレインコートで登山しました。屋久島は雨が多く、雨の日は特に湿気と霧の「もや」、水の雫、緑の苔から滴る水の音、野生鹿の凛とした眼差しにハッとさせられて、その自然に感動させられます。その中でも屋久杉の切株や自然災害で命が終わった屋久杉、もう何年生きているのか不明な屋久杉まで様々な美しさを放っている魅力の宝庫でした。実家にも屋久杉の分厚い一枚板の机があるのですがその一枚板は真ん中に大きな穴があってそれもまた味わいであり、世界にひとつだけのものです。屋久島の魅力は雄大な自然ですが、レンタカーを借りたり、泊まるところが少ないので民宿を利用する観光客が多いです。飲食店やスーパーなどの店が少ない等の不便はあるものの屋久島への登山には日本だけにとどまらず、海外からも人が集まります。ルールなのか登山する人、下山する人が必ず挨拶を交わしていました。下山途中の海外の若者達がヒップホップを歌いながらレインコートの代わりに透明のビニール袋に穴をあけて被っていたのと、素足にビニールをかぶせ、その上からスニーカーを履いていたことが印象強く残っています。登りきった頂上では別の海外の方々とも目が合い笑顔で写真を撮りました。私は疲れており頭がまわらず、英語で話しかけられたのを全部日本語で返していたらしいのですが不思議と会話が成立していたそうです。こんな想い出がある屋久島ですが、人びとがその自然に癒され、屋久杉の魅力を感じる事が出来る素晴らしい観光スポットだと思います。前途の通り屋久島は雨が多いです。雨の中、霧のもやの中で登山すると何故かメイク無しでもメイクしたように綺麗に見えてくるという現象が起こりました。レインコートから出てしまう髪は深い霧で濡れてしまいますが体を動かしていることもあり、唇や頬の血色が綺麗に浮かび上がり色白の人なら一層綺麗に見えたのです。是非とも屋久島へ行き、屋久杉の魅力を感じながら自分自身の姿も鏡か携帯で確認して欲しいと思います。

 

【長年にわたり勤務されてきた黒葛川さんの想い】

木工班の利用者と屋久杉製品を長い間作り続けてきた葛篭川さんに共に歩んできた今は亡き利用者達のへの想いや高齢になった利用者さんと自身について今どのような想いがあるかを聞いてみました。

~利用者さんを想う~

木工班だけではなく多くの利用者を見送り、時折思い出す人ことも多い。木工班が過去に参加したイベントの写真を見ると今はいない利用者の方々と黒葛川さんが笑顔で写っていました。共に沢山のイベントや食事をした思い出があるそうです。長い歴史の中で賑わっていた木工班には沢山の椅子に利用者が座っていましたが現在では2名の姿だけ。広い木工室は木を削る機械音だけが響きガランとしています。空いた椅子が増える度に利用者さんを想い、寂しさをかみしめていたそうです。利用者と共に年齢を重ねて黒葛川さんも月日と共に自分の老化を感じ先の不安を感じることがあったようです。

~始まった当時から現在までを想う~

黒葛川さんは振り返って今を見つめていると『時代の流れを深く感じる』と話されました。その時の表情から感じ取れる寂しさがありました。

私が残りの屋久杉の材料でコップや昔作っていた皿などを再度商品として出すのは出来るか聞いてみると『もうできないよ、そうゆうのは100均で買ったほうが早いよ』と話されました。製品が売れなくなった状況が長く続いたこともあり、新たに新規で商品化を考えていく意欲はなく、利用者と自身の年齢もあり気持ちがあの頃に戻れないといいます。また最近のデザインと使い勝手にコストバランスの良い商品を考えるには難しさがある。残った屋久杉の木を使っても、屋珍しいからといって、ではそれが欲しいと購入してもらえるかはまた別。

数年前からコロナ禍もあり皆が余裕のある暮らしとは言い難くもなりました。昔売れていた商品でも今では売れない商品を日々作り続けている状況でした。取材を終えた時に私は黒葛川さんが毎日どのような想いでその作業に取り掛かっていたのだろうと考えました。2名の利用者との作業時間が終了する時がくることを常に覚悟していたのだろうなと感じました。改めて利用者と過ごす時間と利用者の就労について考えさせられました。

 

仲間を見送りながら残った利用者も頑張っていましたが、いよいよ就労としての作業を継続させることが難しくなることもあり、令和3年12月末をもって木工班の活動を終了いたします。

現在、工作機械を使用した新しい就労支援を検討しています。新しい時代に即した活動が準備できましたら、また改めてご紹介したいと思います。

 

長い間、多くの方々から愛されました、ゆうかりの木工班はこれで活動を終了しますが、ここまで続けて来られたのは応援して下さる方々がいたからこそです。今後、ゆうかりは今までの経験を活かしてさらなる地域貢献が出来るよう今まで以上に努力を重ねてまいります。今まで長い間、誠にありがとうございました。

社会福祉法人 ゆうかり 木工班一同